JCIの歴史と原点

対話の30年代

 JC運動を結合するための新機軸がダーワード・ホーウズ氏によって明らかになった。同氏は1930年にJCマークをデザインしたのである。
 1930〜31年のアメリカJC会頭として、ホーウズ氏は多くの方法によって全米に広がる各地JCを結合することを念願していたが、正式に登録されたJCを表わすマークのデザインは、彼の業績を光らせることになった。
 その後、これは会員バッジとなり、JCの団体名称が変わる1965年まですべての会員が着用していたものである。
 1920年から30年にかけての会員増加は、社会改良をするという理由で集まった全米の青年を、JCが求め、その結果として得た意義ある回答だった。30年までにアメリカJCの会員数は4万9千近くまでになった。この急速な成長は、また会員数に比例して全国大会への代表者の数が増加していき、各国家青年会議所プログラムを確実にした、そのときどきに発展度が明示された。
 1930年代は経済不況によって組織機構上に大きな変化がみられた。アメリカ史上最悪の財政的挫折とともに、JCは全米にわたって経済活動を保つために努力し、人々に「より働け、より高い報酬を得よ、より多く購買せよ」と吹き込んだ。
 JC運動が不景気を乗り切ってから、運動は全米に関係する主な事がらについて対話を起こすための再植林的なプログラムを広げていくよう、力が入れられた。
 1931年12月、JCは2人の偉大な人物のうち、一人を失った。JC運動の初の支援者であるクラレンス・H・ホワード氏がなくなったのである。
 1932年1月20日、初めて「創始者の日」が特別貢献賞をもって行われた。祝賀式は20日に行われたが、実際は1920年1月22日で、現在の「創始者の日」としている。全米特別貢献賞の受賞者が初めて選ばれ、現在行っている「10人の傑出した青年」(TOYM)の先がけとなっている。
 組織機構の面については、アメリカJCの副会頭の数が7人から10人にふえた時期でもあり、この副会頭の数は後の常任理事会の構成につながっている。
 1934年のマイアミ全国会員大会への参加者は、また初の全国会員大会パレードを行うことによって、その先駆者となった。幾年かののち、アメリカJCは商工会議所からは全く独立した団体という決定をした。

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