日本JC誕生
青年経営者の使命感
日本における青年会議所運動は、一人の青年実業家の「ある挫折」に端を発した。それは、戦後まだ間もない昭和23年の夏のことであった。
いったい、日本はどうなるのか。戦争という貴重な代償を支払って獲得した民主政治を基盤とする自由主義体制は、本当に定着するだろうか。あるいは、このまま急速に社会主義化への道を突っ走ってしまうのか。事態は全く混沌としていた。
そんなころ、28歳の青年経営者・三輪善雄は、これからどうやって自分の会社を守っていけばよいのか、ある日、彼は父が親しくしていた財界の大物の丸ノ内の事務所に訪ねてみた。悶々として日を過ごす、そういう自分の気持に飽きたらず、彼はこの時代の経営者としての進むべき道について先輩に教えを乞うたのである。ところが先輩の主体性を持たない言葉を聞き、大変なショックを感じた。
しかし、その時、青年の若い血は、そのままでは納まらなかった。ここでくじけてなるものか。それは、先輩に対する反感から発したものなのかもしれない。会社を再建し、祖国を救うものは、われわれ青年以外にはないのだ。自分たちの世代で何か団体をつくろう。三輪は、そう心に決めたのであった。
ニュートラルな青年の団体
三輪はまず、東商の藤岡清則総務課長に心を打ち明け、援助を求めた。「まずお友だちを集めなさい」という藤岡の示唆に従い、彼は黒川光朝を陣営に引き入れた。話が進むうちに、青年商工会議所というのはどうかといわれ、わが意を得たりとばかり三輪と黒川はそれに飛びついていった。
ところが、藤岡の側は当初から商工会議所の青年部的なものを創ろうとしていたのに反し、三輪たちは馬場先門にも工業クラブにも偏しない、本当にニュートラルな青年たちの団体を創ろうとしていたので、せっかく順調に進むかとみられたこの構想も、両者の見解の根本的な相違から、ここで、一時ストップを余儀なくされてしまった。
しかし生みの親の一人である藤岡は、三輪たちの意を汲み、青年たちの純粋な団体をつくっても、決して商工会議所にとってマイナスにはならないと、藤岡は自分の意見をご破算にして、それなら外国にもそういう団体があるらしいから資料をとってあげよう、とまでいってくれた。実は、これが三輪にとってJCIの存在を知るキッカケとなったのである。
48名の同志的結合
外国の資料集めをする一方、彼らは同志をつのって歩いた。小坂俊雄、堀越善雄、丸普、といった年来の友人を集め、7名の同志で具体的準備にはいった時は、もう24年の2月になっていた。
日本は必死になって、戦後から立ち上がろうとしていた。それなればこそ、先輩に頼むに足らずと立ち上がった青年経営者の有志たちは、ひしひしと祖国再建 への使命感がみなぎってくるのを覚えた。そして24年9月3日、初心がようやく実り、東京商工会議所講堂で東京青年商工会議所創立総会に漕ぎつけたのである。集まった同志は48名、初代理事長に三輪善雄が選ばれ、ここに日本における青年会議所運動の灯はともされたのである。
日本に青年会議所運動が根をおろしたのは、1946年3月の国際青年会議所第1回世界会議から、3年余たってからのことである。しかし、日本におけるこの運動は、設立の経緯をみて明らかなように、いかなる既成の団体ともヒモ付きにならない純粋な中立団体として発足している。そのことは、国際青年会議所との関連においても同様であった。つまり、JCIがあるから日本にJC運動を興したのではなかった。東京に必要があって誕生したのだ。
設立趣意
「新日本の再建は我々青年の仕事である。
あらためて述べるまでもなく今日の日本の実情は極めて苦難に満ちている。この苦難を打開してゆくため採るべき途は国内経済の充実であり、国際経済との密接なる提携である。
その任務の大半を負っている我々青年は、あらゆる機会をとらえて互いに団結し自らの修養に努めなければならぬと信ずる。
既に欧米の各地においては青年商工会議所が設立せられ、1946年にはこれらの世界的連結機関として国際青年商工会議所さえ設置せられておる。われわれはこれ等の国際機関との連繋は素より、青年の持つ熱と力とを以って産業経済の実勢を究め、常に認識を新たにして、その責務の達成を期したい。
ここに政治経済の中心地、東京に在る我々青年はその使命の極めて重大なるを思い、同志相寄り東京青年商工会議所の設立を企図した次第である。」(原文)