JCIの歴史と原点

戦争と戦後の国際化

 アメリカ青年商工会議所が30年目に入ったとき、かつてない試練に出会うことになった。それは、アメリカ青年商工会議所の約85パーセントにものぼる会員が戦争中、軍務に服していたのである。1942年のダラス全国会員大会は「戦争コンベンション」と命名され、大会では次のような決議文が採択された。
 「われわれは、国家が望む勝利と平和を達成するために、充分にして継続的な支持を再び誓い、必要なら奉仕と生命を喜んで提供しよう」
 会員の85パーセントが軍務についているあいだ、残っている会員は戦争債券や証紙の販売、献血運動、そしてくず鉄、ゴムその他戦争支援に使えるもの、必要なものの獲得に猛運動を展開していった。
 戦場と家庭で一貫した努力を通してアメリカ青年商工会議所は第二次大戦の悲劇と混乱のなかを生き残った。45年、日本が降伏したときには、アメリカ青年商工会議所は“25年勝利"と呼ぶにふさわしく、創立から25年をへた1950年までに2倍の会員増加率をもって“最大の拡大"を経験した。
 戦争の勃発に先だって「10人の傑出青年表彰式(TOYM)」が復活し、40年代を通して存続し、将来、重要で威信ある広報プログラムになるよう運命づけられた。
 40年代のTOYMで表彰された人々のなかには、ネルソン・ロックフェラー(ロックフェラー財団)、レナード・バーンスタイン(指揮者、作曲家)、ヘンリー・フォード二世(自動車会社経営)、ジョン・F・ケネディ(元大統領)、ジョー・ルイス(元世界ヘビー級チャンピオン)、ビル・モールデン(漫画家)、アーサー・シュレジンガー(作家)、リチャード・ニクソン(元大統領)、ジェラルド・フォード(元大統領)、チャールス・パーシー(上院議員)、そしてバドウ・ウイルキンソン(作家)の名があった。
 オクラホマ州タルサ市に戦争記念本部の設立決定がなされたのも1946年秋の同じ時期にあたる。そして1949年に着工された。
 ところで青年会議所の世界組織を確立することが必要だという考えは、20年代に始まり、30年代にも若干試みられたが、各国にそのような組織が本当に必要であると理解せしめたのは、第二次大戦であった。
 1942〜43年度のアメリカ青年商工会議所会頭ウィリアム・M・シェファード氏とカナダ青年会議所アリン・ティラー氏は、戦争により国際協力の必要性が広く人々に認識されるにおよび、中南米地域において国際的な青年会議所グループの形成をめざすのは、このときであると判断した。
 中南米への旅行は決して安全とはいえなかったし、困難もあったが、8ヵ月間の準備のあとシェファード、ティラー両氏は中南米に旅行をした。彼らは好意をもって迎えられ、話が広く結ばれて、1944年12月11日、メキシコ・シティーで開かれたインター・アメリカン会議で「国際青年会議所(JCI)」が現実のものとなった。
 組織委員会による準備のあと、最初のJCI世界会議が1946年2月にパナマ市で開かれた。JCIは年月がたつうちにゆっくりと成長していき、加盟国は75ヵ国になり、アメリカ青年会議所から8人のJCI会頭を出すにいたり、そしてJCI本部がフロリダ州に設置された。
 JCI活動は非政治的政策を普及させ、伝統的な国家間の憎悪を解消し、普通の権利を与えられていない国々の地位向上、そして国際的な交友関係の発展など多くのことを達成した。
 全国会員大会が終わったあと、その雰囲気、興奮、選挙運動、感動、そして感激が毎年夏に開かれるこの大会に参加した人々なら誰にでも残っている。そして、それは40年代の青年に関しても同じことがいえた。
 そうした雰囲気がビル・ブラウンフィールド氏をして「JCI綱領(クリード)」をつくらせたのであった。46年のことである。ビルはオハイオ州コロンブス市の新しい青年会議所会員であり、彼が初めて参加したミルウォーキーでの全国会員大会では、かしこまっていた。しかし、その彼がコロンブス市に帰る途中でクリードを作成したのである。
 クリードは翌年、アメリカ青年商工会議所で正式に採択されたが、51年には「Faith in God(神を信じる)」という語句が冒険につけ加えられた。クリードは「彼らが住んでいる世界をよりよくしようとする若者の心に存在する精神の完全なる表現」として引用される。
 1950年までにアメリカ青年商工会議所(これは同時に徴兵年齢にあたる若者とその組織を意味した)の会員数が2つの世界大戦を生きぬいたという、かなり大きな業績を成しとげた。
 アメリカが第二次大戦に突入するに先だって、アメリカ青年商工会議所の会員数は45年には最高で6万5千人以上に達したが、43年には4万2千人に減った。45年は軍人が少しずつ本国帰還を始め、会員数は6万3千人にもどった。日本が45年の夏に無条件降伏してからは、軍人が続々と帰還し、46年6月までに10万5千人の会員を有するほどになった。
 さて、30年以上の間、青年商工会議所は国家的事業をとりあげ、彼らが必要としているものをパンフレットやニュースレターにのせて送り続けたが、どのように行うかという手法に絞った雑誌が強く望まれ、プログラミングがより強調されるようになった。
 1960年、ブートン・ハーンドン氏は「若人は世界を変えることができる」という、いまではすべてのJC運動の合い言葉になっている言葉を誌名に、一冊の本をまとめ出版した。それは今日でも読まれ引用されアメリカでのJC運動の影響を明確にあらわしているものとして考えられている。

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