JCIの歴史と原点
舞いあがる60年代
1960年代は、青年商工会議所創立40周年を祝うため、1960年度の全国会員大会がセントルイスで行われたように、舞いあがる青年会議所精神とともに始まった。祭典の焦点は、基調演説者が当時アメリカの副大統領であったリチャード・ニクソンであったことだ。
アメリカ青年商工会議所会頭が特別製のヘンリー・ギッセンバイアー記念メダルを受けとった全国会員大会開会日に、特別の40周年記念事業が行われた。その事業は、製作者のビル・ブラウンフィールド氏がクリードを朗読することで終了した。
人間が宇宙空間を冒険したこの重要な10年間に、JC会員は41分野にまたがる数限りない事業を含めて、彼らの計画を頂点にまで発展せしめた。
1969年以来いままで以上に力をいれて推進するプログラムが41から11の主要分野に手直しされた。これらは国際的活動、つまり交通安全、健康、会員募集と各地JC拡大、会員開発レクリェーションとスポーツ・コミュニティ・リレーションズ、環境の改善、州や地方都市および大都市運営、アメリカ主義、広報活動、犯罪防止法の実施を含んでいる。
この国々には、びっくりするような国内問題があるがアメリカ青年商工会議所の重点事業のなかに、そうした大きな問題の起こりうる変化を見ることができた。アメリカのテクノロジー(技術)は貧困と個人の苦痛を解決できなかったので、60年代の後半に「雇用機会の増大」という自らを助ける計画が導入された。
アメリカ人は、自らの地方自治体、教育制度、青少年プログラムに不満をもつようになってきた。その結果、青年商工会議所は一時的な解決より「病気」の原因となるものをなおすことにより市民を巻き込んでいこうというねらいで計画に着手した。
「自然」はまた青年商工会議所を全米規模のプログラムに深く巻き込んでいった。1965年に発生した2つの大台風により引き起こされた災害に対しての援助要請に強力にこたえた。
60年代のこの国には、知能発達の遅れが主要な健康問題として関心を受け始めたが、青年商工会議所は「精神衛生と精神的障害」の分野にて企画活動およびプログラム推進を行なった。
これら知能発達の遅れがみられる子どもたちの手助けをするための努力というのは、青年商工会議所組織が外に多くの事業があるなかでも、国中の精神的障害者を対象とした特別のオリンピックを後援するという努力をしているケネディ財団に協力することだった。
この若者の組織が1970年にセントルイスで開かれるわれわれの記念式典に向かって進んでいるとき、われわれはごく最近の10年間の一般的におおざっぱな歩みをふり返ってみただけでなく、変化と成長の50年をもかえりみた。
この10年間に会員数は10万人を越え、1964年にはアメリカ青年商工会議所が2度目のJCI世界会議を主管し、そして1965年バッファローでの全国会員大会では、アメリカが青年商工会議所が、その名称を「商工会議所」から「青年会議所」(U.S.Jaycees)に変えるなど、大きく流れを変えた。
対内的には、JCは4つの戦争(第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争)を生きぬき、セントルイスの修道院で少数の人々から50州を代表する40万人以上の団体にまで成長していった。
対外的には、われわれの企画活動およびプログラム推進は、アメリカの成長とアメリカの問題の双方に影響していった。かつてJCは、ダンスホールからアルコールを追放するキャンペーンを始めた。今日、JCは人間性を求め、その運動を展開している。