JCIの歴史と原点

拡大の20年代

 アメリカJCの始めの10年間は内部抗争と成長にともなう苦痛によって位置づけられる期間だった。始めの幾年かの間、必要に固められたかのような国家の中の新しい団体として、JCは、生き残るための勢力そのものの中に自らを見い出した。
 全国的規模の団体としての価値が初めて確立したのもこうしたときで、全国各地の青年会議所に国家青年会議所会頭から広報誌が配布された。1921年のことだった。
 1925年までに、加盟したグループの数は45にのぼったが、これらはほとんど必要なものが成就されていた分野、地域のみの中での拡大だった。会員青年会議所は彼らの会費支払いについては力をほとんど持たなかったので、国家青年会議所の組織・計画は弱いものだった。財政的には、アメリカJCは零細予算を運営していて、1924年の例をとると2,000ドルとわずかで、JC運動が全国的に影響を与えることはほとんどなかった。
 しかし、会員青年会議所は大きなことを成し遂げ、多くのものを成功させていた。彼らにとっては、アメリカ青年会議所は具体的な利益をほとんど出さないものだったし、会員による国家青年会議所予算からはなんの魅力も引き出しえなかった。これは、多くの会員青年会議所が国家青年会議所から独立して活動していたということである。
 1926年は、全国的に広報物を配布する初年となり、組織を強化する段階に入り、JCを内部的に固めた。また同年にアメリカJCは第1回冬期会員大会を開き、そこにおいて初の国家青年会議所プログラム「まずアメリカを知れ」を採択した。
「まずアメリカを知れ」プログラムは、市民の社会、国家について、彼らを教育することをねらったもので、ただ市民に対してその市民権にそう特権と機会を知らしめるだけでなく、また相応の義務をまっとうする用意をさせるというものであった。
 1926年の全国大会までに、28の新しいJCが組織された。その後いく年かは、JCが国内の主な都市に空港を建設する努力を払った期間で、そのため航空部門の開発においてJCは主要な役割を担った。
 1928年、アメリカJCの全国的規模のプログラムに、航空、政治教育、植林、法律的援助、米加関係、そして海外関係と多くの部門が加えられた。
 1929年始めに、JCストーリーを聞いたと思われる200万人のアメリカ人とともに、初の“JC週間"が加盟団体によって設けられた。11月には一つの方針が認められた。それはJCは、商工会議所とは別の存在であり、この2つの団体が広報活動や事業計画について相互に支援しあうという方針であった。
 20年代の最後の注目すべきものとして、アメリカJCが法人化され、役員とその運営面に対して法的保護が加えられたことである。それは10年目のことであった。

次へ

戻る

このページの先頭へ